アラスカン・カナディアン・ハイウェイとしても知られるアラスカ・ハイウェイは、北米で最も有名かつ重要な道路の一つです。第二次世界大戦中に建設されたこの道路は、隣接する米国をアラスカとつなぐ最初の陸路で、これにより、この大陸の最も遠隔な地域に物品や人を迅速に輸送することが可能になりました。今日、アラスカ・ハイウェイはアラスカと北極圏の経済における重要なリンクを形成していますが、それとは別に主要な観光名所ともなっています。

アラスカ・ハイウェイの計画と建設はきわめて危険な事業でしたが、最新のインフラ改良が施された近年のこのハイウェイは、旅行が著しく安全になりました。アラスカ・ハイウェイの歴史については、この先をお読みください。

アラスカ・ハイウェイと北極圏

アラスカ・ハイウェイは全長1,387マイル (2,232 km) で、ブリティッシュコロンビア州ドーソン・クリークと、アラスカ州で最大の都市の一つでアラスカ内陸部の経済活動のハブであるフェアバンクスのすぐ南にあるデルタ・ジャンクションをつなぐハイウェイです。竣工時の元の長さは1,700マイル (2,700 km) でしたが、その後複数区間で大幅な経路変更や直線化工事がされた結果、全長は短縮されました。

アラスカ・ハイウェイは元々、本土48州とアラスカ州の間の輸送に関する問題を緩和する目的で、1920年代に構想されました。1867年に米国がロシアからアラスカを購入した際、アラスカには価値があると考えられておらず、人口も少なかったため、輸送は低優先度の事項でした。しかし、1890年代のクロンダイク・ゴールドラッシュによりアラスカ州の人口は爆発的に増加し、多数の物流問題が発生しました。これは、アラスカ州が米国本土からカナダの領土により物理的に分断されているということから、いっそう深刻でした。

米国公道局局長を務めたトーマス・マクドナルドは、輸送ルートの問題を解決する手段として、1920年代にアラスカ・ハイウェイを構想しました。このハイウェイ建設に対する支持を獲得するため、アラスカの毛皮商人スリム・ウィリアムズは、提案されたアラスカ・ハイウェイの経路を犬ぞりで走破しました。そのルートを横断することは不可能だと考えられていたため、その結果、彼はかなりの名声を得ました。

アラスカ・ハイウェイの大部分はカナダの領土を横断したため、建設に着手するにはカナダ政府からの支援が不可欠でした。しかし、このハイウェイが横断するカナダの地域の人口はまばらで、不均衡に多くの恩恵を米国にもたらすという理由から、このプロジェクトへの資金援助を拒否しました。

1929年に、ブリティッシュ・コロンビア州政府は、観光と経済活動を促進する手段として、アラスカ州と隣接する48州を結ぶ道路を提案しました。ハーバート・フーヴァー大統領は、この構想についてより詳しく調査するためにアメリカ人とカナダ人専門家のパネルを設置しました。この委員会の1931年の報告書は経済的な理由からこのハイウェイの建設を支持しましたが、同委員会は同時に、このハイウェイは米軍の補強にもつながると結論づけました。1933年に、同委員会は建設費用をブリティッシュ・コロンビア州とカナダ政府が賄い、米国には少額の運営資金だけを拠出してもらうという勧告を行いました。しかし、大恐慌が発生し、このハイウェイに対するカナダの関心が薄れたために、その後の計画は行き詰まりました。

1936年に、米国とカナダの間でハイウェイに関する交渉が再開されました。この時期に日本が好戦的姿勢を強めていたこと、そして戦争勃発時にはカナダが太平洋岸の相互防衛に貢献することを米国は望んでいたことから、フランクリン・ルーズベルト大統領は、この道路の経済的および軍事的利点をさかんに唱えました。しかしカナダは、主に米国に利益をもたらすハイウェイの資金提供に対し依然として関心を持たず、マッケンジー・キング首相は、日米間で開戦した場合、米国はカナダの中立性を侵害するような形でこの道路を利用する可能性を危惧しました。

1941年に日本がパール・ハーバーを攻撃し、米国が第二次世界大戦に参戦したことで、米国とカナダ両国にとっての政治的状況は一変しました。アラスカは、その位置により、日本に対する攻撃拠点として重大な軍事的重要性を持つようになりました。一方で日本は、戦中にアラスカ南西部の一部を占領しました。米国は、本土48州とアラスカの間で人員や物資を迅速に輸送するため、これらの地域間をつなぐハイウェイを必要としました。

1942年、米国とカナダはようやくアラスカ・ハイウェイの建設開始に合意しました。カナダは、米国が建設費用全額を負担し、カナダの領土内を通るハイウェイの区間が終戦後にカナダ当局に移管されるという条件で、このハイウェイの建設に同意しました。建設は1942年3月8日にドーソン・クリークで着工されました。これには、日本軍からの攻撃から比較的保護しやすいという理由により、米軍の計画者が「ルートC」と呼ぶ計画が用いられました。

作業員が南端と北端の両方から作業したことにより、アラスカ・ハイウェイの建設に拍車がかかりました。1942年9月24日、建設作業員の両チームは、後に「コンタクト・クリーク」と命名されることになる場所で合流しました。建設は、地元の資源と米国本土から輸送された資材の両方を使って、米国陸軍工兵隊によって行われました。このハイウェイは1942年10月28日に公式に完成しましたが、一般車両は1943年まで走行できませんでした。

第二次世界大戦のため大急ぎで完成させる必要があり、狭いスイッチバックや急勾配、劣悪な路面、ガードレールの欠如などが問題となっていたため、完成後も数年間は、アラスカ・ハイウェイはあまり安全に走行できるものではありませんでした。ルート上の多くの橋は架設の浮橋でしたが、それらは徐々に丸木橋にアップグレードされ、さらにその後、時間の余裕がある場合は鋼製橋に付け替えられました。ユーコン準州のハイウェイの一部は、永久凍土の融解により、1943年に一時的に通過できなくなりました。

1946年、米国・カナダ間の当初の合意に従い、アラスカ・ハイウェイのカナダ国内の区間の管轄が米国陸軍からカナダ陸軍に移管されました。これに続き、カナダ陸軍はハイウェイの一部区間をブリティッシュ・コロンビア州およびユーコン準州の管轄下に移管しましたが、ブリティッシュ・コロンビア州内のハイウェイは、部分的にカナダ公共事業局によって管理されています。米国陸軍は後に、残された系統をアラスカ州政府に移管しました。

アラスカ・ハイウェイの道路の維持管理状態は、管轄する政府機関の優先順位や利用可能なリソースが異なるため、きわめてまばらでした。ハイウェイのアラスカ内の区間は1960年代に舗装が完成したものの、カナダ領内の区間は1980年まで舗装が完了しませんでした。ブリティッシュ・コロンビア州とユーコン準州の政府は、区間距離を短縮し、一般交通の安全性を高めるため、複数区間のルート変更も行いました。

終戦以来、アラスカ・ハイウェイは、米国本土をアラスカ内陸部と結ぶ唯一の直接陸路を提供しているため、北米の道路網の主要幹線となっています。アラスカとの間で物資を輸送する多数のトラックがこの道路を利用しており、1970年代にトランス・アラスカ・パイプライン・システムが開通してからは、経済活動は上昇しています。このハイウェイは主要な観光名所にもなっており、ルート沿いに数多くのビジネスが事業展開し、訪問者にサービスを提供しています。また、このハイウェイ沿いには、ユーコン準州のデストラクション・ベイのように、その建設をサポートするための町がいくつも設立されました。

まとめ

アラスカ・ハイウェイは、現在でも北米で最も重要な道路のひとつで、米国本土とこの第49州の間に直接の陸路を提供する他、カナダ西部にある多数の小さなコミュニティの基盤ともなっています。旅行しやすい道路とはいえないものの、数十年におよぶインフラの改善により、旅行者による横断は著しく安全になっています。その歴史的重要性と見事な景色により、アラスカ・ハイウェイは今後長年にわたり主要な観光名所であり続けるでしょう。